ステータス
| 名前 | ボボ・ブラジル |
|---|---|
| 身長 | 198cm |
| 出身地 | ミシガン州ベントン・ハーバー |
| 得意技 | ココ・バット |
| キャリア・ハイライト | US王者、NWA地区王座複数回獲得 |
| 仲間 | ジェームス・ダッドリー、ロッキー・ジョンソン、ダスティ・ローズ |
| WWEデビュー | 1951年 |
| トレーナー | ジョー・サヴォルディ |
バイオグラフィー
人種差別が蔓延る暗い時代にあっても、ボボ・ブラジルは人種問題を超越することできた。アフリカ系アメリカ人達は彼をお手本とし、人種差別的な思想を持った観客であっても、立ち上がってこの人気者のスーパースターに歓声を送らずにはいられなかった。多くの人はブラジルを"スポーツエンターテイメント界のジャッキー・ロビンソン"と呼んでいた。ブラジルとロビンソンは共に、スポーツ界において人種の壁を打ち破った存在だからだ。
ミシガン州ベントン・ハーバー出身のブラジルは、ジョー・サヴォルディのトレーニングを受けた後、1951年にデビューを果たした。元々、彼は"ブー・ブー"ブラジルという名前でデビューをするはずだったが、プロモーターが広告で表記を誤ったため、彼はボボ・ブラジルとなり、この名前で定着した。
ブラジルはおそらく、地元のデトロイト地域で最大の名声を得たといえるだろう。この地で彼は地元のレジェンド且つプロモーターで、WWE殿堂入りを果たしたザ・シークの最大のライバルとなったのだ。ブラジルとザ・シークは数十年に渡ってお互いを血に染め、しばしばミシガン、オハイオ、オンタリオなどで現在のUS王座を奪い合っていた。
デトロイトでの生活はブラジルにとっては良いものだったかもしれないが、それ以外の地域では大変な思いをした。ブラジルが活躍した時代には、黒人のファンは白人のファンとは違う隔離された場所に座らなければならず、ブラジルは多くのホテルやレストランから締め出されてしまった。彼はこの逆境に威厳をもって立ち向かい、他の仲間達も彼の態度に触発されていった。
多くのプロモーター達は、異人種間で試合を組むと人種騒動に発展するのではないかと恐れ、アフリカ系アメリカン人同士の試合しか組まなかった。ブラジルは危険な敵であったアブドーラ・ザ・ブッチャーやアーニー"ザ・キャット"ラッド等を倒し、この手の試合で成功を収めていった。
だが、ファンはボボが限られた対戦相手としか試合をしないことに納得せず、プロモーター達はファンの声に応えざるをえなかった。ブラジルは実質的に誰からの挑戦も受けていた。彼はキャリアの大部分を、ファンから愛されるレスラーとして活躍していたが、他のいわゆる"善玉"と対戦することに関して、良心のとがめは全く感じていなかった。少なくとも1度、彼はアンドレ・ザ・ジャイアントと引き分けている。サイズの違いを考えれば素晴らしい偉業である。だが、1970年には史上初となる人種混合試合で、ブラジルはエル・モンゴルと組んでミスター・イトウ&ザ・グレート・オータに勝利し、アトランタのスポーツエンターテイメント史に名を残した。
だが、ファンはボボが限られた対戦相手としか試合をしないことに納得せず、プロモーター達はファンの声に応えざるをえなかった。ブラジルは実質的に誰からの挑戦も受けていた。彼はキャリアの大部分を、ファンから愛されるレスラーとして活躍していたが、他のいわゆる"善玉"と対戦することに関して、良心のとがめは全く感じていなかった。少なくとも1度、彼はアンドレ・ザ・ジャイアントと引き分けている。サイズの違いを考えれば素晴らしい偉業である。だが、1970年には史上初となる人種混合試合で、ブラジルはエル・モンゴルと組んでミスター・イトウ&ザ・グレート・オータに勝利し、アトランタのスポーツエンターテイメント史に名を残した。
ボボはディック・ザ・ブルーザー、ジョニー・バレンタイン、ヘイスタックス・カルボーン、キラー・コワルスキーといったスター達とも記憶に残る抗争を繰り広げた。リング外では友好的な態度だが、ブラジルは疲れを知らないケンカ屋で、同じことをやり返すためにあえて対戦相手にルールを破らせようとしていた。また、ブラジルがスポーツ界一の石頭を誇ることは広く知れ渡っており、ライバル達をかの有名な"ココ・バット"で倒してきた。
彼が誰とでも対戦したことを示すエピソードとして、ブラジルはWWE王者のブルーノ・サンマルティーノと対戦したことがある。1960年代北アメリカのファンのお気に入りとしては珍しいことである。ファンはこのような対戦カードでは、両者に声援を送り、複雑な反応を見せていた。特にワシントンDCは、ブラジルファンの拠点であった。同じくWWE殿堂入りを果たし、初めて大アリーナを使用したWWE関係者であるジェームス・ダッドリーは、同地でボボが彼の背後を小走りでついてくる中、タオルを振りながらリングへと駆け込み、観衆を盛り上げた。ブラジルがワシントンで激しい試合を行った後、"クラッシー"フレディー・ブラッシーは、ボボが頼めばファンは凶行に及ぶこともためらわなかったのではないかと言う程、ブラジルはワシントンで人気を博していた。
だが、ブラジルはどこへ行っても成功を収めた。NWA地区王座をデトロイト、トロント、フロリダ、サンフランシスコ、中部大西洋地区で何度も保持。彼は中部大西洋地区でUS王座を1度獲得し(後のWWE US王座)、1962年には、1994年に殿堂入りしたバディー・ロジャースからあと少しでNWA世界王座を奪取するところまで追い詰めた。
スポーツエンターテイメント界で40年近く活躍したブラジルは1990年代に引退したが、リング外での生活も成功と言えるものだった。彼は1980年代にロッキー・ジョンソンの相談・指導役を務め、ベントン・ハーバーでは彼のレストラン、『ボボズ・グリル』は地元の名物となっている。
1994年、ブラジルはWWEホール・オブ・フェイム入りを果たし、最高の栄誉を得た。彼は長年のライバル、アーニー・ラッドに紹介され、その僅か1年後、ブラジルがラッドの殿堂入りの紹介役を務めた。だが、残念なことにブラジルは1998年1月20日に73歳で亡くなった。
スポーツエンターテイメント界での40年以上のキャリアを通じ、ボボ・ブラジルはファンのお気に入り、王者、そして何より、将来スポーツエンターテイメント界で活躍するアフリカ系アメリカ人のパイオニアであった。




